推定1960年代頃、GRENFELL(グレンフェル)製『ラグランスリーブ ハリントンジャケット』になります。
しかもこちら、ミラノの老舗紳士服商 "Pozzi & Co.(ポッツィ)" との別注個体という、なかなかお目にかかれない一着です。
グレンフェルと言えば、市場で見かけるものの大半はゴルファージャケット。
ところがこの個体は、襟と裾に異素材のリブが入っており、それだけで同じブランドのものとは思えないほど表情が違うんです。
物語は1920年代、イングランド北西部ランカシャー州バーンリーの機屋から始まります。
"Haythornthwaite & Sons(ハイソーンスウェイト&サンズ)" の当主ウォルターが、極細のエジプト綿を1インチ四方あたり約600本という常軌を逸した密度で織り上げてしまう。
ゴム引きも樹脂コーティングも使わず、糸と糸の隙間そのものを潰す事で風雨を防ぐという発想でした。
これが後に「グレンフェルクロス」と呼ばれる布の誕生になります。
その布に名を貸したのが、極北ラブラドルで漁民の医療に生涯を捧げた宣教医 "Sir Wilfred Grenfell(サー・ウィルフレッド・グレンフェル)"。
氷点下の海風に耐え得る布として彼が選んだ事から、その名がそのままブランドになりました。
やがてこの生地はエヴェレスト遠征隊の背を包み、極地探検の記録と共に語られ、英国王室御用達の栄誉を受けるに至ります。
本作に縫い付けられているのが、通称「山タグ」と呼ばれる織りネーム。
生成りの地に茶色の糸で、雪を頂く峰と、そこへ挑む登山者のシルエットが織り出されています。
上部には王室紋章と「MANUFACTURERS OF GRENFELL CLOTH」の一行。
この小さな一枚に、いま申し上げた歴史のすべてが凝縮されているんですね。
そして、その真下。
桜色の地に赤い王冠と紋章を敷き詰め、流麗な筆記体で "Pozzi & Co." と織り込まれたタグが並びます。
「FORNITORE REALE」——イタリア王室御用達。そして「ABBIGLIAMENTO MILANO」「15, Corso Vittorio Emanuele」。ドゥオモから伸びるミラノの目抜き通り、その15番地に店を構えていた紳士服商です。
英国王室と、イタリア王室。
二つの王家の紋章が、一枚の身頃の内側で上下に並んでいる訳です。この事実だけで、もう十分ではないでしょうか。
さて、そんな出自を持つ一着が、なぜかハリントンなのです。
グレンフェルでこの型に出会う事は、正直に申し上げてあまりありません。
まず襟。ニットのリブで組まれた折り襟になっており、身頃よりわずかに赤みを帯びた杢グレージュが使われています。
畝の走る編み地が、平滑なクロスとの間に明確なコントラストを生んでくれますし、立てても寝かせても首元に柔らかい厚みが残ってくれるかと思います。
フロントジッパーには "AERO" 社製を採用。
英国の老舗ファスナーメーカーで、この刻印が入る事自体が年代を語ってくれる部分になります。
真鍮の務歯は使い込まれて渋い焦茶に沈み、スライダーの縦長のプレートには「AERO」の四文字がくっきりと刻印されていますね。
腰の左右にはフラップポケットを配置。
開口が斜めに切られ、フラップの先端は鋭角に尖ります。
袖口も同じ意匠で、剣先状の短冊に二つのボタンが縦に並ぶタブカフス仕様。
リブで絞らずボタンで留めるこの処理は、G9系のハリントンとは明確に一線を画す部分かと思います。
そして裾が、これまた変則的なんです。
後ろから見ると、中央は共地のヘムバンド、その両サイドにだけリブが差し込まれています。
全周をリブで絞ってしまわない事で、裾の落ち感が保たれる。冒頭で申し上げた「表情の違い」の正体は、ここにあります。
袖はラグランスリーブを採用しており、肩の上に縫い目が走りません。
ですのでお客様の肩線にそのまま沿って馴染んでくれます。
素材は、コットン100%のグレンフェルクロス。
寄って見ますと、細い綾線が規則正しく右上がりに走っているのが分かります。ただ、その目が驚くほど詰まっているんです。
指を這わせるとコットンとは思えないほど滑らかで、それでいてわずかに反発してくる。
古い年代のグレンフェルクロス特有の、あのモチモチとした密度感ですね。
この生地は、着込むほどに繊維が馴染んで柔らかくなっていきます。
綾の凹凸が少しずつ光を含むようになり、肘や袖の付け根に自分の動きの跡が入ってくる。硬さが取れてくる頃合いが、この生地の一番良い時期なのではないでしょうか。
カラーは、乾いた砂のような "ベージュ"。
黄みにも灰みにも振り切らない中間色で、経年によってわずかに焼けが進み、今はミルクティーに近い温度を持っています。
そこへ、赤みを含んだリブのグレージュ、飴色のボタン、燻んだ真鍮のジッパー。
すべてが同じ「時間の色」で揃っているというのが、この個体の美点かと思います。ここに新しいものを一つ混ぜてしまうと、たちまち壊れてしまう調和ですね。
ベージュというのは、着る方の手数を減らしてくれる色です。
白シャツにグレーのスラックス、足元はローファー。それだけで十分に成立してくれます。
むしろ余計な要素を入れない方が、この生地の質感が前に出てくれるかと思います。
逆に、黒のタートルネックやチャコールのニットを合わせて、あえてコントラストを立てて頂くのも面白い一着です。
ハリントンという型の軽さと、グレンフェルクロスの品格。
その二面性をインナー一枚で行き来できますので、着回しの幅は想像以上に広いのではないかと思います。
サイズ表記はございませんが、日本サイズで "M ~ L" 程度に該当するかと思います。
実寸値を見ましても、シャツやニットの上から羽織って程良く落ち着いてくれるバランス。
ラグランスリーブですので肩幅がジャストでなくとも比較的許容してくれる型ですし、幅広い体型の方にご着用頂けるかと思います。
汚れ・擦れ・小穴等の使用感はありますが、着用に問題のある大きなダメージは見受けられませんので、まだまだご着用可能かと思います。
最後に一つ、面白い話を。
イタリアは1946年に国民投票で王政を廃止しております。
つまり「FORNITORE REALE(イタリア王室御用達)」という肩書きを、新たに名乗れる店はもう存在しないんですね。この桜色のタグは、その制度が生きていた時代の残り香という事になります。
グレンフェルは今も健在ですが、山タグの時代のクロスで、しかもミラノの王室御用達との別注で、さらにハリントンという型。
この三つが同時に揃った個体を次にいつ見られるかは、正直こちらにも分かりません。
王室が認めた布を、王室が認めた店が売る。
そんな時代が確かにあったのだと思うと、なんだか胸が熱くなってしまいませんか?