推定1980年代頃、イタリア製『コットン × エラスタン ジップアップジャケット』になります。
いやぁ、これは変わっています。
スタンドカラーの喉元にはベルト、胸には開き方の違うポケットが二段構え。
どこかで見たような気配はあるのに、同じ形をした個体を思い出せないんです。
内側に残っているのは品質表示のタグ一枚だけで、ブランドを示すラベルは付いていません。
そこに記されているのは "MADE IN ITALY" の一行と、"95% コットン × 5% エラスタン" という組成、そしてサイズを示す "52" の数字。
作り手の名前は分からないまま、素性だけがはっきりしているという状態ですね。
1980年代のイタリアは、既製服の生産力が世界の頂点に立っていた時期にあたります。
北部の工房が長年培ってきた仕立ての技術と、量産の設備が噛み合い、名の知られていない工場からも驚くほど質の高い服が生まれていました。
そこへ、当時ようやく普段着に降りてきたのがエラスタン、いわゆる伸びる化学繊維です。
それまで革やレザーで作られていたライダース由来の意匠を、動く生地に置き換えたらどうなるのか。
この一着からは、そんな実験の気配が伝わってくるように思います。
細部を順に見ていきましょう。
まず目を惹くのが、スタンドカラーの喉元に据えられたストラップとバックル。
これはバイクに跨がった際、風圧で襟が煽られないよう首元を留めておく為の機構で、カフェレーサーと呼ばれるジャケットの作法そのものです。
締めれば首元がぴたりと閉じますし、外して緩めれば襟が自然に開いて表情が変わってくれます。
胸元は、この個体で最も面白い箇所かと思います。
横一文字に走るジップポケットの真下に、丸みを帯びたフラップポケットが重なり、それが左右対称に配されています。
開き方の違うポケットを縦に二つ重ねてしまうという発想。
落としたくないものはジップの方へ、出し入れの多いものはフラップの方へ、と自然に使い分けが生まれる訳で、意匠としての面白さと実用がきちんと両立しているんですね。
袖にも仕掛けがあります。
袖先だけが一段濃いブラウンで切り替えられていて、まるで後から別の袖を継ぎ足したかのような表情。
袖口はジップでの開閉式となっており、スライダーには "YKK" の刻印が確認出来ます。
捲らずとも手首の詰まり具合を変えられるので、実際に着てみると想像以上に便利な仕様ではないでしょうか。
フロントの開閉もジップアップ式で、こちらのスライダーには "ri" の刻印。
スイスの "riri" 社のものである可能性はありますが、詳細は不明。
ただ、歯の一枚一枚が厚く、開閉した時の手応えが実にしっかりしている事だけは確かです。
背面に回ると、腰の左右にバックル式のアジャスターが付属します。
裾周りの絞り具合を左右で調整出来るので、インナーの厚みや好みのシルエットに合わせて表情を変えて頂けます。
生地は、細かな綾目が斜めに走るコットンツイル。
指を滑らせても引っ掛かりが一切なく、しっとりと吸い付いてくるような手触りが心地良いんです。
混紡された5%のエラスタンが効いていて、腕を上げても肩が突っ張らず、身体の動きに逆らってこないのも嬉しいところかと思います。
この生地は、着込むほどに綾の凹凸が磨かれて艶を帯びていきます。
肘や袖口に自分の動きの癖が出てくる頃が、たぶん一番格好良い頃合いなのではないでしょうか。
カラーは、深く落ち着いたブラウン。
ただ、一色で塗り込められている訳ではありません。
袖先は濃く沈み、身頃は陽に灼けたように明るく褪せ、背中には陰影のような濃淡が浮かんでいます。
工場で均一に染め上げられた一着が、四十年近い時間の中で少しずつ表情を崩し、結果として一点物のような顔つきになった訳です。
この色の揺らぎだけは、新品からは決して手に入りません。
ブラウンという色は、ブラックほど構えず、ベージュほど緩まない、実に扱いやすい立ち位置にあります。
デニムやチノパンと合わせて肩の力を抜いたスタイルにするのも良いですし、黒や濃紺のスラックスを合わせれば、スタンドカラーの効果で驚くほど端正な佇まいに切り替わってくれます。
秋口の、羽織り一枚で丁度良くなるあの時期に、真っ先に手が伸びる一着になるかと思います。
サイズ表記は "52"
日本サイズで "L ~ XL" 程度に該当するかと思います。
肩線がわずかに落ちる、余裕を持った作りとなっています。
身幅にもゆとりがありますので、厚手のニットを仕込んで頂いても窮屈になる事はないかと思います。
生地特有のアタリ・褪色等の使用感はありますが、着用に問題のある大きなダメージは見受けられませんので、まだまだご着用可能かと思います。
先に触れた通り、褪色はこの個体の欠点ではなく、むしろ表情そのものです。
気になる方には向きませんが、時間の積もった服を探しておられる方にとっては、これ以上ない魅力になるかと思います。
作り手の名前も、正確な生年も分からない一着。
それでも、襟のバックルや二段のポケット、袖先の切り替えといった細部には、誰かが確かに面白がって作った痕跡が残っています。
同じものを探そうとしても、恐らく二度と出会えないかと思います。
素性の知れない服が、名の知れた服よりも雄弁に語ってくる事があるだなんて、面白いと思いませんか。